ドブネズミ達ハローワールド

Chi trova un amico trova un tesoro.

背景設定 : ドブネズミ達のハローワールド(定期更新型ゲーム)


#1 サイモフェン
 彼には金が必要だった。

 故郷を飛び出してのらりくらりと暮らして早数年。
 その日暮らしで生きていくなら、不足は無かった。
 そう、一人で生きていくだけならば。

 どうしても、金が欲しかった。
 故郷の妹が安全に暮らす居場所を、外の世界に作るために。


 
 サイモフェンが故郷を飛び出して、数年になる。
 17歳の頃だったから、もう5年になるだろうか。今年、22歳になる。

 都会の路地裏、華やかな灯の踊る夜の街が彼の住処だった。

 夜に出歩き、酒場で賭け事に興じ、酒を飲む。
 ギルドの依頼で諜報をする事もしばしばだ。あれは、金になる。
 あまり上層と関わりはないため、その情報によって何がどうなるのかは知らない。しかしながら、情報が何より必要とされているのだという事は何となく感じる。
 しかしながら、彼の担当は概ねろくでなしと呼べるような人間だった。
 有難い、と思う。そういうヤツなら、盗情報を抜くのに胸も痛まない。
 俺はただ、酒を飲んで、人と話すだけだ。
 抜かれて困るようなモンなんざ、持ってる方が悪い。

 サイモフェンは、日の沈む頃に起き、日の出と共に眠る。
 そんな暮らしをしているのも、ひとえに自分の体質ゆえだ。
 その白い肌も、透き通るような金緑の瞳も、陽光下で活動するには弱すぎる。もとより、日陰で生きていた人間だ。自分の暮らしやすい時間を選んで生きると、自然、仕事も限られてくる。彼の手先が器用なのも幸いした、錠開けも得意だ。
 自分がお世辞にも褒められた若者ではないという事は知っていた。
 だが、俺は生きている。死ぬ気も毛頭ない。
 ただそれだけだ。


 
 ――サイモフェンの故郷は、辺境にある。
 人里から隔絶された辺境の大洞窟、《調律師の村》。
 《石の歌を聴き、その力を引き出す》。
 石の力を扱う能力を持つ一族の末裔だ。
 古くから大洞窟で暮らし、細々と長らえてきた。日の当たらない生活をしてきた彼らはみな一様に儚い見た目をしている。
 しかしもう、その数も僅かだ。子供も少ない。
 サイモフェンは、この村で12年ぶりに産まれた子供だった。

 彼らの世界は洞窟の中で完結している。外の世界は、存在しない。
 洞窟で月を崇め、灯火を友とし、石の歌を奏でて生きる。
 ――それが、彼らのすべてだ。

 それでも今サイモフェンがこうして外界にいるのは、
 全て彼の好奇心と反抗心に端を発するものだった。
 ある時、知ってしまったのだ。外に、人の住む世界があるということ。

  “陽光に触れると死んでしまうよ”

 ――構わなかった。
 ここでこうして生きていくくらいなら、外の世界で死んだ方がマシだ。

 カビ臭い因習に絡め取られて、
 一生をあの洞窟で終えるなんてまっぴら御免だった。

 かくして彼は、外の世界に飛び出した。
 言葉に馴染むのに苦労はしたが、外の世界は刺激的だった。

 毎日、楽しかった。その日暮らしでもいい、こうして生きていけたら。
 そんな彼を揺さぶったのは、故郷の妹の言葉だった。

 “わたし、月の女神さまの元にかえらなくてはならないから”

 遠慮がちにそう言って微笑む妹。
 それは、“一族繁栄の為の人柱になる”ということを意味していた。


 
 織り屋に産まれた娘、ルーナエ。
 その娘は、美しく、才能豊かで、優しく育った。
 まるで月の女神の娘だと、誰もが誉めそやした。
 子供の少ない集落において、彼女は皆の娘であり、妹だった。

 勿論サイモフェンも彼女を大切にしていた。
 誰より一番、可愛がっていた。
 だからこそ、看過できなかったのだ。
 カビ臭い因習の為に、大事な妹が命を捨てることなど。


 サイモフェンには、金が必要だった。
 彼女を外界に引き取り、育て、守り抜くだけの場所を手に入れる為に。

 ――そんな時彼の耳に入ったのが、
 国からの報酬が約束された、迷宮攻略という仕事だった。


 
#2 剣を佩いた少年
 迷宮攻略は、ひと月に1度。継続期間は、最低1年程度。
 なんでも数年前から各地に“発生”しはじめた迷宮からは魔物が現れ、被害をもたらしているのだという。

 迷宮を破壊する手順はいたってシンプルだ。
 迷宮は、光の柱のような姿をしている。触れると、内部に侵入できる。虚構のような存在だが、確かに実在している、無数に。
 そしてその最奥に到達し、礎石と呼ばれる石を破壊する。それで迷宮は瓦解する。それだけだ。

 しかし迷宮は次々と発生する。
 要は、国の正規兵だけでは手が回らなくなったわけだ。

 攻略チームは、基本的に4人から成る。
 4人グループで攻略する連中もいれば、ありあわせの4人組で挑む場合もある。
 それはつまり、1人で挑む必要がないということだ。

 サイモフェンには戦いの経験はない。
 しかし、周囲は曲がりなりにも冒険者として志願している連中だ。 
 サイモフェンのような者だけが寄せ集まるような悲劇さえ無ければ、自分でも迷宮攻略は可能だ。彼はそう踏んだ。

 周囲には落着いた面構えの連中が多い。
 さてどいつと組めば生存率が上がるだろうか?

 ――そうやって周囲を観察するうち、彼の目に留まるものがあった。

 ただの少年だった。
 子供だ。背は低い。サイモフェンの胸元に届くかどうか。
 煤けた渋緑色のフードつき外套に着られている、金髪の少年。 その身に不釣り合いな剣を腰に佩いて、本人としてはいっぱしの冒険者のつもりのようだが、あまりにアンバランスなその姿は嫌でも目を引いた。
 どうやら、単身らしい。親がいるわけでもない。
 しかし少年は平然とその場にいた。
 おいおい、どうなるか分かってんのか。遊びじゃねえんだぞ。

 同じ年頃の妹を持つサイモフェンのこと、
 少年を放っておける筈もない。


 サイモフェンは少年に近づいて、ひょいと上半身を屈めて問う。
「どうしたよ、ガキんちょ」
「ガキんちょじゃないです。僕はユピテルです」
 少年は見上げると、表情も変えずに答える。
「へえ、そうかい。ユピテル。俺はサイモフェンだ。
 ……親はいないのかい、1人で挑む気か?」
「僕に親はいません。僕は護衛用のホムンクルスなので1人でも十分戦えます。問題ありません」
 つらつらと少年は答える。なんだかよく分からないが、取り付く島もない。
 体格的にはその剣は似つかわしくないが、しかし使い慣れていない者が武器を持っている時のようなちぐはぐさは感じない。
 戦える、のだろう。多分。けれど、ガキには違いない。

「こんなチビのクセして一人じゃ危ねえよ。

 このサイモフェン様がついてってやる」

 兄貴風をふかせて言うサイモフェン。
 一人で大丈夫と言う少年と、何度も押し問答が続く。

 暫くそうしてから、不意に少年はじっとサイモフェンを見つめた。

 そのまま時が経つ事数秒。ふと思い直したように少年は頷いた。
「わかりました。サイモフェンさんはちょっと弱そうなので
 僕が一緒に行ってあげます」

 
思わず殴った。
 ユピテルは「痛いです」と言って、平然とした顔をしていた。
 

▼ 

 
#3 ユピテル
 彼らの初めての迷宮攻略は、成功に終わった。
 流石に冒険者連中は強かった。そして、ユピテルも。

 腰に佩いた剣は飾りではなかった。彼は敵陣に躍り込み、剣を薙ぐ。
 森を模した迷宮。うごめく虫の化け物。
 サイモフェンは何も出来なかった。

“仲間がいりゃ、楽ができるって思ったけど。
 何にも出来ねえっつーのは、こんなに悔しいモンか”
 
 自分が役立たずだとは思いたくはなかった。
 しかし現状は、そうであると言わざるを得ない。
 はあ、とため息をひとつ。

「どうかしましたかサイモフェンさん」
「ああ、いや。こっちのコト。気にすんな」
 迷宮攻略の報酬を受け取った帰り、嘆息するサイモフェンを見上げてユピテルは問う。いつもの、ぴくりとも変わらない表情。
 まるで端正な飾り人形のようだ。ふわふわと浮世離れして見える。
「……ユピはちゃんと寝泊まりする場所はあんのかよ?」
「はい、問題ありません」
「んなら、いいけど。じゃ、またな。来月も頼むぜ」
「わかりました。それでは」
 
 少年に手を振り、踵を返す。
 酒でも飲むか。いつまでも悩んでもしゃーねえ、飲んで忘れよ。

 暫く歩いて、ふと違和感を覚えた。
 ユピテルの行く先だ。寝泊まりする場所はある、と言った。
 けれどあいつは人探しに来ていると言っていた。旅の人間だろう。家に戻る訳ではない、ならば宿へ向かう筈だ。
 少なくとも郊外へ向かうとは考えにくい。
 それなのになぜあいつは、人気のない街外れに向かった?

 放っておいてはいけない気がした。
 あいつは腕が立つ。それは分かる。しかしとても人の善意の中の悪意に気づけるような繊細な機微を持ち合わせているとは思えない。
 夜の街は俺の庭だ。けど、あのガキにとっては違う。ガキにとって夜の世界は、決して安全な場所ではない。

 サイモフェンは踵を返した。
 ああ、ったく、落ち込んでるヒマもねえ。
 なんて世話の焼けるガキだ、くそったれ。
 

 
「――で、何でこんなトコに居た」
「暖もとれますし夜風をしのげます。お金もかかりませんし、僕は強いので危険もありません。一番理想的な環境だと思います」
「廃墟で野良猫の間に挟まってンのが? 理想的? マジで?」
「はい。猫さんはあたたかいですね」
「そういう問題じゃねーよバカ」

 ――初めての迷宮攻略を果たした夜。
 街外れに消えてゆくユピテルを追ったサイモフェンが目にしたのは、
 廃墟に陣取って野良猫に埋もれているユピテルだった。
 慌てて引っこ抜いたものの、特に自分の行動が異常だとは思っていない。
 このユピテルという子供、戦いに於いては戦鬼のようだったというのに、いざ戦場を離れてみればまるで常識がない。
 世話が焼ける子供だった。

「いいから、ついて来い。俺のトコ泊めてやる。
 1人ずつ泊まるよか安いだろ。交渉して安くしてもらってんだ」
「なんでですか。僕は1人でも大丈夫ですしここでも支障ないのですが」
「だーッ、ガキを1人でこんなトコに置いとけるか!」
「具体的な理由じゃないと思います。サイモフェンさんは僕のことすぐガキって言いますよね僕確かに12歳ですけど年齢は何も出来ない理由にならなかったですし僕は1人でこれまでも大丈夫でした。サイモフェンさんは1人だと大丈夫じゃない大人かもしれませんが僕は1人で大丈夫な子供ですしガキだからってのは理由にな」

 ごいん。
 思わず拳固が出た。無表情で殴られるユピテル。
「痛いです」
「だーーーッ!!! つべこべうるせーーーーッッッ!!!!」
 抗議しているが痛そうに思えない。サイモフェンは頭を掻きむしった。
 俺大丈夫か? こんなしちめんどくせぇガキにお節介焼くなんざ、正気か? ああ、でも、ココまできたらもう引っ込みつかねぇんだよ!
「いいから! 行くぞ! 馬鹿ユピ!」
「ばかって言われるのは心外ですし理不尽ですね。サイモフェンさんの言う事はよくわかりません」
 変わらない表情で、ユピテルは首を捻る。それでも、今度は素直に付いてきた。
 サイモフェンは若干後悔した。が、今更遅い。
 
 彼らが迷宮以外でも共に行動するようになったのは、
 この日からだった。
  


▼ 

 
#4 創造主
 女が叩かれた扉を開いたあの日、出迎えたのは武装した兵数人だった。
 友好な気配ではなかった。彼女にとって、排除すべき存在。
 ユピテルは鞘口に手を掛ける。すぐにでも斬りかかれる。その動作を目にした兵も武器に手を掛ける。それでもユピテルに躊躇いはなかった。
 護衛用のホムンクルスは、主を守り戦う為にあるのだから。
 それを制したのは、守ろうとした筈のその女――少年の創造主だった。
「やめておけ、ユピテル」
 創造主は笑う。少年は戸惑い、動きを止めた。
「どうも私は行かねばならないようだ。おまえはついてくる必要はない。ここにいろ」
「なぜですか。主、僕は」
 問う事はできる。けれど彼女の課した制約を、少年は破る事が出来ない。
「ああ、憲兵諸君。抵抗する気はないよ。武器を収めてくれないか。この子は私の言う事をよく聞くんだ。私在る限り、逆らいはしない」
 今まさに囚われびとにならんとする主は、優雅に語った。その言葉通り、ユピテルは動けない。動けなかった。少年は被造物で、彼女は創造主だったのだ。
 ややあって、兵も得物から手を下ろす。  
「――いつかこういう日が来るのは覚悟していたさ。なにしろ私は天才だ、神も私が疎ましくなったのだろう」
 彼女は笑ってそう言うと、手を上げたまま兵に歩み寄る。無抵抗の印だ。
「ユピテル。――世話になったな」
 彼女は振り向いた。目を細めて、笑う。
「これからは、もう自由だ。お前の望むとおりに生きろ。――達者でな」
 あとはもう、振り向かなかった。閉まる扉。過ぎ去っていく足音。取り残されたユピテル。
 ――主を見たのは、それが最後だった。
 

 
 ホムンクルスであるユピテルが創造主と別れた顛末を話すのを、サイモフェンは黙って聞いていた。
 ホムンクルスというものを、サイモフェンは知らなかった。

 訊けば、魔術的な工程から生成された人造人間なのだという。

「お前が人造の? 人間? ウッソでぇ」
 サイモフェンはベッドに転がりながら、部屋の掃除をしているユピテルを見遣る。
 どこからどう見ても人間だ。中性的で整った容姿をしてはいるが。
「いえ、正真正銘のホムンクルスですよ。創造主である魔術師が僕のことを創りました」
「家事手伝い用に?」
「いえ、護衛用です。創造主とその近しい人を守るように、との制約があります。言いましたよね護衛用って。もう忘れちゃったんですか。あ、まえ僕聞きましたよ人間の大人って年をとるともの忘れが多くなっていくんですよね。大変ですね」
うるっせ殴るぞ。いや、戦う為にしてはえらい家事マメにこなすなと思ってさ。毎日してんじゃん、掃除、洗濯」
「料理も得意ですよ。主にやるように言われてました」
「便利だなオイ」

 ユピテルは訊けば訊くだけいくらでも喋った。
 変わった子供だ。その無表情も、まくしたてるような話し方も。
 こちらの言う事には思うさま論理的に文句を言うのだが、そのくせ本人に嗜好というものが存在しない。納得さえすれば何でも受け入れる。
 その整った相貌と相まって、よくできた人形のようだった。
 少し反抗的だが。

 また別のある日、彼は家を出た日の事を話してくれた。
 彼が主の足取りを追い始めたのは、主が姿を消して暫くしての事だった。
 憲兵に問うと、随分前に迷宮に向かったのだという。
 街路の石垣に腰かけて、サイモフェンは買ったばかりのパンを半分こに割ってユピテルに差し出した。少年は素直に受け取る。
「――それを探しにココまで来たってワケか」

「はい。いつまでも家に戻らないということは、迷子になったということですよね。なので探しにきました」
 そう言って、行儀よく腰掛けたユピテルはパンを食んだ。
 迷子ねえ、と呟きながらサイモフェンもパンを頬張る。
 聞く限り、そういう事態ではなさそうだが。まあ、例の如く場の機微が分からなかったのだろう。


 ユピテルの話は続く。
 なんでも、創造主は赤子のホムンクルスを生み出すことに成功したものの、その赤子はあまりにも出来が良すぎたのだという。

 つまり、赤子らしく自分で身動きの取れないユピテルを一から育てる羽目になった訳だ。
 彼は赤子の頃から口だけは達者だったようだ。さぞ苦労したに違いない、同情する。

「お前の創造主、随分気長だよな。護衛用だったんだろ? 実際に護衛してもらえるまで相当かかったんだろうな」
「そうですね。でも僕の出来が良かったので主の機嫌は良かったですよ。誕生日のたびに高笑いしながらケーキを用意してくれたんですけど最初は僕1歳児だったので食べられなくて困りました」
「高笑い? どんなんだよ。結構トばしてんな。お前は人の誕生日の時に高笑いすんなよ」
「お祝いの必須事項かと思っていました」
「やめてくれ」

彼の主は、随分豪快で不遜な人間だったとみえる。
語られるエピソードは聞く分には非常に愉快なものだった。

「親はいないってお前言ってたけど。
 お前の創造主、赤ん坊のお前を12年ここまで育てて、誕生日祝って、なんてしてたワケだろ?
 その創造主が、ユピにとっちゃかーちゃんみてえなモンだろうなあ」

「かーちゃん。ですか」
 きょとん、としてユピテルが顔を上げた。
「ああ、かーちゃん。母親だよ。違うか?」
「…………」
 思い巡らすように、ユピテルは雑踏に視線をうつす。
 夕暮れ時の通り。帰路につく者達が行き交い、人は流れていく。
ユピテルの目がふと、何かをとらえたようにぴたりと止まる。
 連れ立って歩く母娘。仲睦まじそうな、談笑。

 ユピテルはその母娘を目で追い、見送り、
 そして再び視線を足元に落とした。沈黙。

 何を思ったのだろうか。ユピテルはしばらくして、
 ぽつりと一言だけ呟いた。

「……僕には、よくわかりません」
 
 

▼ 

 
#5 迷宮の日々I
「ッとォっ!?」
「あっ、そこ危ないですよ」
 足を取られてバランスを崩したサイモフェンを見て、ユピテルはいつもの顔で言う。
「先に言えよ」
 恨みがましげに半眼をくれてやる。そうですね、と返事。顔色に何の変化もない。
 付き合いもそこそこ長くなってきたから分かるが、ユピテルの返事に深い意味はないのだろう。次も転んでから同じような事を言うだろう。あるいは、サイモフェンさんが転びそうなので先に言っておきます、みたいな前置きをつけるだろうか。
 くそ、と胸中で毒づきながら、サイモフェンは立ち上がって砂を払った。

 あれから数か月になる。
 毎月の迷宮の攻略にも徐々に慣れてきた。
 相変わらず対魔物での活躍機会はなかったものの、サイモフェンは自分の能力についてひとつ気付いた事がある。
 状況の変化を察する事に長けているのだ。
 石の力を引き出し自分の感覚をわずかに強化する術を身に着けていた彼は、他者のそれより鋭い感覚も持ち合わせていた。
 迷宮の環境は多岐にわたる。魔物が出ずとも身を滅ぼす因は幾らでもあった。いまいちパッとしない力なのは気に食わないが、危険を察知し、回避するための観察眼は、生き延びる為に必要だ。
 ――とはいえ、未知の環境に適応するのは難しい。
 道が歩き辛いと分かるからといって、うまく歩ける訳ではないのだ。
 

 
 サイモフェンが自分の力について考え始めるのと同じように、ユピテルもまた日々成長しているようだった。
 経験や日々の己の成長に適応しようとしているのだろう。その必死さゆえに、様々なものが疎かになっているようでもあった。
 
「ちょっと見せてください」
 負傷者の手当をするユピテルもまた、怪我をしている。
「ユピ、お前も怪我してんじゃねーか」
「僕は痛覚を鈍く作られているので大丈夫です」
「そういう問題じゃねえ」
 “護衛用のホムンクルスとして作られている。”
 ユピテルは、その事をよく弁えている。それ以外の何かだとは、夢にも思っていない。自分は道具であり、人間を助ける者。
 自分の危険は、二の次かよ。

 ある月などはぐれてしまい、礎石を破壊して迷宮が消えるまで戻ってこなかった。迷子になっていたのだろう。
 今日こそ危険物を避けると意気込んでいたため、何かがお留守になったのだろう。

「どこ行ってたん、ユピ」
 礎石を破壊して元の世界に戻った瞬間現れたユピテルに訊いてみると、彼は僅かに釈然としない表情を浮かべた。
「気が付いたらはぐれて、迷宮が消えていました。不思議です」
「逸るのもいいけど、護衛対象置いてったら意味ねーだろ。
 ……あのな。言っとくけど、お前はもう少しちゃんと自分の面倒も見ろ。お前がちゃんとしてねーと、守るモンも守れねえだろ」

「そうですね……」
 聞き流すかと思ったが、この時ばかりは少し神妙な声が返ってきた。
 


 
#6 迷宮の日々II
 野営には不寝の番が必要だ。
 同行者2人を寝かせて、その日はサイモフェンとユピテルがその番に当たっていた。
 樹の姿を模した魔物――雷撃樹というらしい――が野営地を襲ってきたのは夜半のことだった。

 1体を一太刀のもとに切り伏せるユピテル。
 続けざまにサイモフェンが投げたナイフは雷撃樹に止めを刺すことは適わなかった。直後、魔物が放った雷撃が2人の身体の自由を奪う。
 それはほんの僅かな時間の事だった。それでも、隙を突かれるには十分すぎる。雷撃樹の続けざまの攻撃が、ユピテルを襲った。
「……支障が出そうですね」
 怪我を負ったらしいユピテルはそれでも迷いなく魔物を薙ぐ。そして、サイモフェンの放ったナイフでようやく魔物は地に伏した。
「大丈夫かユピ!?」
「怪我を負ったみたいですね。ですが」
「俺が仕留めそこなった。悪ぃ。……見せてみろよ。つべこべ言うなよ、痛いとか痛くないとかは関係ねぇからな」
「でも、十分動けるので問題ないのですが」
「つべこべ言うなっつってんだろうが」
 座らせたユピテルの傷に手当を施していく。見様見真似だ、いつもユピテルがやっていることの。手慣れていない様子は、嫌でも相手に伝わるだろう。
「……無茶ばっかしてんじゃねえよ。頼むから」
「サイモフェンさん、」
 何を問うべきか分からなかったのだろう。ユピテルは口ごもる。
「いい機会だから、言っとくぞ。
 そりゃ、お前は強いだろうさ。痛くもねーかもしんねえ。

 けど、そういう問題じゃねえよ。痛くねーから大丈夫なんて、お前、その調子でやってっと、そのうち死ぬぞ」

 手を動かす。ユピテルは黙ったまま、聞いている。
「あのな。ちったあ自分の面倒見ろってのは、なんつーか、……。
 ……俺は、これでもな、ユピ。おめーを、弟みたいに思ってんの。
 手がかかるよ。ほんっとめんどくせえガキだよ。けど、危ねーコトしようとしてたら止めたくもなる。要らねーかもしれないが心配もする。
 大人なんて、そんなモンだよ。……心配してんだ、バカ」
 包帯を巻いてやる。ユピテルは、黙ったまま。
「……だから。頼むから、ちったあ俺の言う事も聞いてくれよ。
 お前がケガする。と、俺が困る。心配だから、だ」
 サイモフェンは少年を指差してから、そのまま自分を指す。
「……お前だってそうだろ。創造主は、お前にもう自由にしろっつったんだ。守らなくていい、って。それは、命令だろ。
 けど、お前は創造主を探してる。
 創造主と被造物、だからなのかもしんねえ。
 けど、それだけじゃねえよな。お前は命令を聞いてない。
 ……家族だからだ。心配なんだろ。会いたいんだ。
 お前がやってんのは、“もう会えなくなる”無茶だ。……自覚しろ」
 言い切ると、サイモフェンは立ち上がった。
 ユピテルは座ったまま動かない。しばらく言葉をかみ砕くように、そのままでいた。サイモフェンは、様子を覗き見る。
 ユピテルが浮かべていたのは微笑だった。これまで見たことのない、微かな笑み。
「……何笑ってんだよ」
「笑ってません」
「笑ってただろ」
「笑ってませんよ」
「はぁ!?」
 ユピテルはサイモフェンの様子にはお構いなしに、砂を払って立ち上がった。身体の動きを確認するように少しずつ動かす。
「そろそろ夜明けなので、皆さんの元に戻りましょう」
「……、……。わーったよ、こんにゃろ」
 クサい台詞吐き損じゃねえか。
 不承不承といった表情を浮かべるサイモフェンに背を向け、ユピテルは野営地へと踵を返す。
 サイモフェンも頭を掻きながら、その背に続く。

「……ありがとうございます」

 ふと小さく、そう聞こえた気がした。
 


 

#7 煌葉祭 I
 11月には祭りがあるという。
 10月の迷宮攻略を終えて、束の間の安息を過ごしているサイモフェンの耳に入ってきたのは、そんな噂だった。
 確かに街全体が浮足立っているように思える。明るいニュースだ。息抜きは重要だ、たとえ世界がどんな状況になっていたとしても。
 サイモフェンは楽しみだった。異国の祭りか、どんなだろう?

「なんでも、酒は飲めるし露店もめちゃくちゃ並ぶらしいぜ。ま、人が集まる分ここぞとばかりに稼ぐ連中もいるけどな」
 酒場で仲良くなった男が、酒で顔を赤くしながら朗らかに語る。
 まあ、彼が言っているのはスリや詐欺師の類だろう。確かに、祝い事の時は警戒心が緩むものだ。酒が入るとなれば、尚更。

「サイモフェンお前、最近いっつも子守三昧だろ。いーじゃん、たまには遊べば」
「はは、ま、そーだなァ。あれだろ、ナンパしたり?」
「そーそー! この若さでさあ、子守りに費やすなんて勿体ないぜぇ?」
「はは、違ぇねえ!」

 男がぎゃははと笑う。あわせて、同じように笑って返す。
 ――祭りか。あいつ、祭りなんて行ったコトあるんだろうか?
 

 ユピテルは護衛用につくられたという存在だ。
 その主命の為に生き、死ぬなら本望だと彼は言うだろう。
 ――だがそれでも、ユピテルは、子供だ。
 彼自身がどんなに否定しようと、サイモフェンはその認識を曲げる気は更々なかった。


 祭り、か。男にはああ答えたが、ユピテルを連れて見て回るのもいいかもしれない、と思う。
 大体において、あいつにはガキらしさが足りない。
 それに、与えられた宿命に殉じるだなんて。サイモフェンはどうしても、故郷の妹と重ねてしまう。
 他者の為に、繁栄の為に、人柱になる妹。
 馬鹿げている。妹には、妹の人生がある。ユピテルにも。

 ガキならガキらしく、自分の欲しいモンを駄々こねて求めりゃいい。支障が無いから必要ないなんてのは、おおよそガキらしくねえ。
 自分の人生だ、何で自分自身の要求がねえんだ?
 自分で言い出さないなら、引きずり出すまでだ。


「なあ。ユピ、来月祭りじゃんか」
「そう書いてありましたね。それがなにか」
不思議そうに見上げるユピテルに、サイモフェンはにっと笑う。
「――服買いに行くぞ、服! 祭り用だ。お前のヤツ!」
 

 
「おいユピ、これなんかどうよ」
「こっちの方が防寒性に優れてますし目立ちにくいと思います」
「だーッ、今回は機能性は度外視だ。祭りだぞ祭り!?
 たまにゃガキらしいカッコしろよ。おら、着てみろよ」

「そういうものですか」
「ああ、そういうモンだ」

 ああだこうだと騒ぎながら、サイモフェンとユピテルは衣料店で服を見繕っていた。鎖帷子もマントも着てる場合じゃない。祭りなんだ。
 丈の短いパンツに、子供らしすぎるきらいのある赤いフードつきケープ。
 ユピテルは、一般的な男児に比べてもやや小さい。整った顔をしたその小さな少年は、子供らしい服装をしてみれば随分可愛らしく映った。
 戦士、ではなく、1人の子供の格好をさせる。
 サイモフェンは、形から入るのは重要な事だと考えていた。


「……うん、いーじゃん? ガキっぽいじゃん」

「ガキっぽいというのは誉め言葉ではない気がしますが」
「誉め言葉だよ、ばか」

 そうですか、と頷くユピテルの頭上で、フードの白いぽんぽんが揺れる。その動きが、嬉しい時の動物の尻尾のようで、思わず笑う。
 金は貯めたかったが、たまにはこいつに使ってやるのも悪くない。
 店員に代金を支払う傍らで不思議そうにぽんぽんを揺らすユピテルを見遣った。財布を仕舞いながら、念のため忠告する。


「言っとくけどなあ、祭りだからな祭り。ぜってー剣とか持ってくんなよ」

「何かあった時対応ができないのでそれは困りますし第一そうなった時にサイモフェンさんは弱いので僕が戦えなくて一番困るのはサイモフェンさんだと思いますしやはりそれは合理的じゃな」

 ごいん、と拳で黙らせるサイモフェン。

「痛いです」
「うるっせーーッ! つべこべ言うな! 
 祭りだっつってんだろうが!」


 まったく、機微が分からないのにも程がある。
 ユピテルは釈然としない顔のまま。
 それでも、新しい服を喜んでいるように、見えた。 
  


 

#8 煌葉祭 II
 11月、晴れた秋の日。煌葉祭。
 元は収穫の無事を祈る祭りらしいと聞く。しかし、ここに集った異国の民達にとっては騒ぐ良い口実だろう。
 荒んだ世の中である、息抜きの口実は必要だった。

 人通りは多く、露店も数多く並んでいる。酒や食べ物を手に練り歩く者も多い。なるほどこれは、楽しそうな祭りだった。
 サイモフェンは街並みを眺める。土産物も置いてありそうだった。そうだ、妹へのお土産を見繕うのもいいな。
「うわ~、なんかすごいですね! ねっ」
 隣ではしゃいだ声を上げるのは、ユピテルだった。
「おう、はぐれんなよ」
 思わず目を細める。
 もちろん帯剣はしていない。見繕ってやった服を素直に纏い、ユピテルはせわしなく辺りを見回していた。

 今日ユピテルに与えた命題は、“楽しむコト”である。
 とにかく、今日くらいは子供らしく過ごさせようと意気込んでいた。
 ――だがまあ、彼の様子を見る限り心配する事もなさそうだ。新しい服は、それなりに効果があったようだ。
 そういう事にして、サイモフェンは満足する。


 祭りは楽しかった。
 装備品やお守りを見繕ってサイモフェンが買う傍ら、ユピテルが変な壺を掴まされたりもした。
 犬にぶつかって折角買った食べ物を奪われたり、案の定他の連れが財布をスられたり、様々な事があった。
 ――それでも、祭りは楽しかった。


「ふう、人も多いしよ、そろそろ疲れてきたよなぁ」
「そうですか?」
 日が暮れ始め、大人達の顔に疲労が見え始めた頃にも、ユピテルはまだ元気だった。
「今日のお前は楽しそうだなあ」
 本当は少し心配していた。本当に、全く、自分の思うような楽しみを感じ取る感性が、そもそも彼には備わっていないのではないかと。
 だとするならば、俺のこれは決めつけの、押し付けだ。いわゆる自己満足というやつで、この少年の意思などまるで無視した行為だろう。

 彼にとって何がそんなに楽しかったのは分からない。それでも、この顔を見れば自分の心配は杞憂だったと思える。

「……あ」
 少年が不意に、暮れて夜の帳がおりはじめた空を見つめて、小さくつぶやく。
「どうした、ユピ」

「一番星ですよサイモフェンさん」
「どれ。……あ、ホントだ」
「今日はサイモフェンさんより僕が早く見つけましたよ」
 ぱっとこちらを見上げるユピテルの顔は、嬉しげに輝いていた。

 野営の時に、一番星を見つけては教えてやっていた。
 いつも、そうですか、と生返事していると思っていたのに。

 大体、一番星を見つけたから、なんだって訳でもないだろうに。
 悔しかったのだろうか、いつも負けるのが。
 嬉しかったのだろうか、俺に勝てるのが。
 無邪気で子供らしい対抗心だった。そういう風にも、思えるんだな。
 サイモフェンは小さく笑う。

「……ああ。そだな、今日は俺の負け、だな」
 

 
 祭りが終わる。
 喧騒が徐々に引いていく。まるで引き潮のように。
 眠たげに目を擦り始めたユピテルを連れて、帰路に着く。

 ――迷宮攻略も難しくなってきている、と聞く。
 うかうかしていると、命まで奪われかねない。

 それでも、とサイモフェンは思う。
 無事にこの仕事を終わらせて、
 このガキに色んなモン見せてやりてえな。
 美味いモン食わせて、綺麗なモン見せてやるんだ。
 妹をこっちに引き取ったら、一緒に旅行をしてもいい。
 もの知らずのガキ共に、世の中は面白いんだって教えてやりてえ。

 ユピテルは、創造主を見つけたならそこに戻るだろう。
 そんなことは、百も承知だった。

 それでも今は、この変わった弟分をただ甘やかしてやりたかった。
 



「 運 命  化 
- 死 亡 解 禁  -


 

#9 
 油断、した。
 激痛に耐えながら、サイモフェンは考える。
 どこだ。俺はどこで間違えた? こんな筈じゃなかった。
 意識はただ、痛みと恐怖で塗り潰されていく。
 砂が舞い視界の濁った、深い森。
 12月。樹海の迷宮での事だった。
 

 
 喧騒。夜も盛りの酒場は、熱気も冷めやらない。
 飲み仲間――大概ゴロツキだ――と酒を交わしながら、ふと1人がこんなことを言う。
「最近、冒険者連中にも死者が増え始めたって聞くよな」
「まあ確かに危険な仕事だしなあ」
「お前どーせ、他の連中に戦わせて後ろでラクしてんだろ? 向いてねーコトするよなあ。お前そのうち死ぬんじゃね?」
「ありえるわぁ~~お前が来なくなったら思い出話しながら酒飲んでやるから感謝しろよ」
「好き放題言いやがって」
 半眼をくれる。サイモフェンはジョッキの酒を舐めるようにちびりと飲んだ。飲むのは好きだが金はない。
「……けどさぁ、マジな話、お前クソ弱ぇんだからそんな仕事投げちまった方が身の為よ」
「この仕事任期1年なんだよ。やめられっかボケ」
「お前意外に真面目だよな」
「あァ!?」

 ――死者が増え始め、戦意を失って街を逃げ出す冒険者が増えたという話は聞いていた。
 魔物討伐を生業とする者ならいざ知らず、少し腕に覚えがあるだけの人間が挑むには確かに過酷な仕事だと思う。相手は人間ではないのだ。ルールなど通用しない。目の前で同行者が獣に臓物を貪られるのを見た時、果たして正気を保っていられるのか?
 サイモフェンは幸いにして、そのような現場を目にしてはいない。だから、未だにぴんとこない。経験のないものは、想像に難い。

 死はまだ遥か遠くにあるもので、自分とは無縁の代物だ。
 ――そう思っていたのだ。あの樹海に挑むまで。  
 

 
 12月。砂の舞う樹海の迷宮で、大蜘蛛と対峙していた時だった。
 敵は2体居た。気配は察知していた。仲間にも蜘蛛の魔物と対峙した事のある者がいた。有利な筈だった。
 だから、これは完璧に油断だった。
 ユピテルが斬り込み1体を絶命させた直後、もう1体が自陣に飛び込んできたのだ。――その鋏角が狙ったのは、サイモフェンだった。
「うっ…がッ!」
 腹部に強烈な痛み。
「サイモフェンさん!!」
 ユピテルの声がする。遠い。痛い。
 ちょっと待ってくれ、嘘だろ。これ、治るのか?
 ――くらりとする。その痛みは、死の恐怖を実感するに余りあった。
 現実目の前で起こっているすべてが、急に遠ざかったような気がした。彼の意識を痛烈に貫くのは、ただただ痛みだった。
 意識に取り縋るように思考する。しかし、恐怖に塗り潰されて消える。

 俺は、ココで、死ぬのか?
 こんな、実体すらない虚構の迷宮の中で?
 呼吸が荒くなる。やめろ、やめてくれ、御免だ、死にたくない、俺は折角外の世界に来たのに。あんな洞窟の中で誰にも見出されずに消えていく人生は嫌だった。だけど、こんなの、それと一緒じゃねえか。

 何も出来ず、何も残さず、妹も助けられずに、死んでいくのか? ココで? こんな、惨めに。
 故郷の連中は笑うだろうか。嘲るだろう、「だからこうなる」と。
 「お前には向いてねーよ」、「だから堅実に働けばよかったのに」、「お前クソ弱ぇんだから」――外の世界で出会った連中の顔が浮かび、声が過る。
 嫌だ。負け犬のまま死ぬのは御免だ。

 俺はまだ何もしてない、何にも、そう、何にもしてねえ、誰か、誰か、誰か、
嫌だ、やめてくれ、誰か、助けてくれ、嫌だ、誰か、――

「――殺していいですか」
 冷たい怒気をはらむ声。はっと我に返る。
 恐怖と絶望に塗り潰された世界が、急速に色を取り戻す。サイモフェンは、つられて声の主に目を遣る。そう、小さな俺の弟。ユピテル。
 少年の小さな背にゆらりと炎が立ったように見えた。怒り。
 今まであんな風に強い言葉を使う事はなかった。あんな声を出す事も――
 飛び込んでいくユピテルがどんな顔をしていたのか、見えなかった。それでも、眼前の敵への憎悪が感じ取れる。
 彼は大蜘蛛の懐に躍り込む。その太刀筋には迷いがない。しかし、正確さに欠けている。避けられた。ユピテルの舌打ちが聞こえる。

 冷静になれ、ユピ。ダメだ、お前はなりふり構わなすぎる。やめろ、冷静になれ、
 ああ、――そうだ、冷静になれ。俺が。

 サイモフェンは伏したまま、得物のナイフを掴む。それから、少し身を起こして、渾身の力で大蜘蛛の頭を狙ってナイフを投げた。命中する。既に弱っていたのであろう大蜘蛛は、そこで崩れて消える。背後からの止めに、驚いて振り向くユピテル。
「サイモフェンさん! けがは、」
「……。ばッか。だから、冷静に、」
「……今はそれどころじゃありません。あなたを優先するべきです」
 ユピテルは急いで屈み込んで治療の準備をする。他の同行者も、ユピテルを手伝ってくれているようだ。痛覚に支配され朦朧としながらも、サイモフェンは安堵した。倒れ込んで天を仰ぎ、嘆息する。空は見えない。砂で埃っぽくけむる鬱蒼とした木々が折り重なるだけだ。
「まったく、なにやってるんですか」
「……痛ぇ」
「当たり前ですよ。ばかなんじゃないですか」
「お前だってよく怪我してるくせに」
「サイモフェンさんは後方にいるじゃないですか。なんでそこで怪我するんですか? 油断してるからそうなるんですよ」
「……ぐうの音も出ねえし元気もねえ」
「反省してください」
「したくて怪我してんじゃねえよ……」
 ユピテルが怒っている。
 何でそんな怒ってんだよ。俺が怪我したからか? 動揺したのか。お前が?
 ――思わず、笑う。
 それを見てユピテルがまた、眉間に皺を寄せた。
 


#10
 傷は残るが、仲間たちの治療のお陰でだいぶ楽になった。
 この程度で済んだのは僥倖だ。どのみち、礎石を破壊し迷宮を抜けなければきちんとした治療を受ける事も出来ない。休養も要るだろう。今はただ、先に進む他ない。

 サイモフェンは思案していた。
 明らかに、最近発生している迷宮の魔物の凶悪さが増している。死者が出ているのも頷ける話だ。
 これまでのように何となく仲間の力を頼っているのでは駄目だ。自分の身を守り、この弟分に無茶をさせない為の方法。何が、要る。何が。
 俺には力がない。先程のように不意を突く事は出来る。ナイフ投げは得意だ、練習した。人間相手なら、或いは。――けれど、敵は魔物だ。あの巨体にナイフが1本刺さった所で、何の役に立つ?

 思考はぐるぐると廻る。サイモフェンは完全に黙り込んでいた。
 それを手負いが故と判断したためか、ユピテルはいつも以上に周囲を注意深く警戒しているようだった。
 だからこそ、その魔物に真っ先に気づいたのはユピテルだった。
 人間からウーズという名で呼ばれるその怪粘体。 酸を持つ危険な魔物。
 気付かれる前に、奇襲を仕掛けられる。
 同行者は魔物の懐に躍り込んだ。不意を打たれたのであろう魔物は一瞬戸惑ったようだったが、すぐに行動に出た。
 酸の体液が、斬りかかったユピテルを襲う。深手ではなかったようだが、彼の鎖帷子はしっかり溶かされている。
 そのまま魔物は強酸で他の同行者に深手を負わせ、続けざまに再びユピテルを狙った。体勢を崩す。
 しかしユピテルはすぐにひとつ息を吐くと、踏み止まった。
「ユピッ!」
「手……、脚……」
 サイモフェンの声に呼応することなく、彼は手足の動作を確かめる。
「……大丈夫まだ動きます」
 ユピテルは再び敵に斬り込む。敵は倒れない。サイモフェンは得物を握った。
「だっ、から、無茶すんなって言ってんだろうが!」
 ユピテルが与えた衝撃で、核が露わになっていた。すかさずそこを狙う。
 それがとどめになった。
 ユピテルがふらつくのを、慌てて抱き留める。間もなくして、同行者が治療を施し始めた。ユピテルがかぶりを振る。
「……僕よりも、あちらの方の傷を」
「……お前の傷の方が深いんだよ。あいつも了承済だ」
「でも」
「つべこべうるせえ」
 サイモフェンは手当を受けるユピテルを見守った。
 手ずから治療してやることもできねえ。力があれば。けど。
 ふと。ナイフを拾って見遣る。 怪粘体に一矢報いてやった俺の得物。

 気付いた。
 ――外殻を破壊する力など要らない。最低限でいい。
 隙を見出す。不意を打つ。弱点を狙う。生命を維持する方法さえ破壊すればいい。それだけで、自壊する。礎石を破壊された迷宮のように。
 
 ――情報だ。
 俺に必要なのは、情報だ。
 視ること。考えること。そして、敵を知ること。
 今まで散々ギルドの命で情報を集めていたのに、今まで気付かなかった。
 俺は大間抜けだった。戦局を支配するのは、情報だ。何よりも強い力。

 幸いにして、それ以後魔物に出会う事は無かった。
 漸く迷宮の礎石が見える。
 同行者が礎石に一撃を与える。迷宮の景色が揺らぐ、崩壊する。

 ――迷宮もまた、ひとつの生命体なのかもしれない。
 崩れ去る景色を眺めながら、ふとそんなことを思う。
 取り込んで、喰らう。体内器官である魔物を操り、その懐奥深くに冒険者を誘って。

 気が付けば、外界だった。いつもの平穏な景色。
 遠くには光の柱が見える。迷宮の存在を知らせるもの。
 サイモフェンは遠くに立ち上る光の柱を睨み付けた。
 好きにさせるかよ、クソが。お前が飲み込んだのは抜身の剣を下げた荒くれたちだ。せいぜい油断して口を開けてろ、迷宮。
 お前の体内器官ごと、ブッ潰してやる。 
  


 
#11
 12月の冒険から戻って、暫く経つ。
 サイモフェンに医療の知識は乏しかったが、ユピテルの薬が効いている間は痛みも少なかった。何でも、主の研究を手伝っていた都合で人の身体には詳しいらしい。一体何をしていたのかは、とりあえず聞かないでおいた。
 漸く動いても大丈夫だと判断された頃、サイモフェンは酒場に赴いた。
 情報収集のためだ。

 喧騒。忙しなく通路をゆく看板娘、男達の下卑た笑い声。

 酒場の夜はいつも変わらない。今日もいつもの飲み仲間が、目敏くサイモフェンを見つけた。ジョッキ片手にぎゃははと笑い声を上げる。面白い玩具を見つけた時の声だ。嘲笑。
「サイモフェ~~ン、お前ぇ、いつからコブ付きになったワケ?」
「隠し子ですゥ~~って?」
「っるせー! 冒険者仲間だ、アホが!」
 言い返すと、ちらりと後ろの小さな姿を見遣る。ユピテル。
 ――いつも酒場に訪れるのは、ユピテルが眠りに就いてからだ。彼が起きている時間に、それも酒場に連れてくるのには理由がある。
 ユピテルは医療の知識に明るい。サイモフェンが集めた情報を肉付けするのに、生物そのものの知識を持つ者の存在は力になる。
 それに、良い社会勉強にもなるだろう。多分。

 馴染みを無視して、サイモフェンはカウンターにコインを置いた。
「よお、マスター。エール1杯。……腕利きの冒険者が居たら知りてえ。どいつだい」
「何だ、サイモフェンの坊主。雇うのか」
「いいや、ちょっと世間話よ。腕利きを雇う金はねえ」
「情報収集か。――今いるメンツだと、そうだな……あっちの連中か。この辺では有名だよ」
 店主が顎で指す方をちらりと見る。なるほど、貫禄がある。
「オーケイ、サンキュ。んじゃな」
「おい、待て」
「え?」
「礼儀は必要だろう?」
 店主は大きな酒器をどんとカウンターに載せた。大型のピッチャー。優に数人分は酒が入っているだろう。言わんとするところを察して、サイモフェンは呻く。財布の中身を思った。
「……俺の分のエール要らねえ。やめとく」
「そうか。坊主は?」
 店主が小さなユピテルに優しい声を掛ける。思案するユピテル。
「僕はミルクを」
「ミルクをじゃねえ!!! 金がねえっつってんだ!!!!」
 財布の中身を数えながら喚くサイモフェン。ユピテルは平然としている。
 結局ミルク代は出す羽目になった。ちくしょう。

「よお、お兄さんがた! あんたら、名が売れてるんだろ? 俺も連れのガキも冒険譚が好きでねぇ、ちょいと武勇伝を聴かせてくれよ」
 ささ、ほら、一杯。酒器からジョッキに酒を振る舞ってはサイモフェンの情報収集は続く。子供連れなのが功を奏したのか、はたまたサイモフェンが甘く見られているのかは知らないが、案外冒険者たちは機嫌良く話してくれた。
 冒険のこと。経験した危険のこと。どんな風に回避したか、ということ。
 魔物のこと。やれ、あの形の魔物はここをこうして――
「――って。ぼうや、眠いんじゃないか? うとうとしてるぞ」
 数時間話し込んだ頃、冒険者の1人の言葉にサイモフェンは隣の席を見遣る。うつらうつらとするユピテルの頭があった。そうだ、早寝なのだ、コイツは。
「あ~……」サイモフェンは頭を掻く。「……いいトコだったのに」
「子供をこんな時間まで連れ回さない方がいいんじゃない?」
 呻く。まあ、確かにそうだ。そろそろ引き上げた方が良いだろうか、夜はまだ長いが。
「ぎゃはは、コブ付きは大変だなァサイモフェン!」
「うるせぇ!!!」
 馴染み連中の席は近かった。飛んでくる野次に怒鳴り返し、サイモフェンは不承不承、といった顔で立ち上がった。ユピテルを立たせて、冒険者たちに向き直る。
「ためになる話聞けたよ、サンキュ」
「お安い御用さ。また何か聞きたかったら来なよ。酒奢ってくれんならまた話すよ」
 冒険者は片目を瞑ってみせた。あんがと、と礼を述べながらもサイモフェンは引き攣った笑みを浮かべた。

 生きていくには金がかかる。それは文明社会での真理だ。
 この時ばかりは、通貨という概念のない故郷を懐かしんだ。

 


 
#12
「――今日お話を聞いた方は、あまり詳しく話してくれませんでしたね。
 なぜでしょう」

「そら仕方ねーよ。考えたくなかったんだろ。
 あんだけ話してくれりゃ、上出来だ」


 今日もサイモフェンとユピテルの情報収集は続く。
 迷宮攻略の日が近付いていたある日、耳にしたのだ。
 ――迷宮で攻略を失敗して、逃げ帰ってきた冒険者の話。
 なぜ失敗したのか、それを知る事は次なる攻略の鍵になるものだ。
 何が何でも話を聞きたかった。彼らは酒場の片隅で、正気から逃げるように酒を浴びているという。

「よお、ちょいと話を聞かせてくれねえか」
 ふらりとテーブルを訪れたサイモフェンを、冒険者一行は怪訝な顔をして迎えた。
 そして彼が迷宮で出会った魔物についての情報を欲していると知ると、皆表情を歪めた。拒絶のサイン。
「――忘れたくて、考えたくなくて、酒を飲んでるのに」
 それでもサイモフェンは、食い下がった。暫くして、冒険者のリーダーが重い口を開く。
「……。ウーズだよ。あいつなら、俺達も戦った事があったんだ。
 慣れてさえいれば、対処さえわかれば、強敵じゃなかった。酸だって……」
 何かを思い出したのだろうか。言い淀んだ。そして、首を振る。
「とにかく。あいつは……危険なんだ。
 あいつの酸には、気をつけろ。……俺が言える事は、それだけだ。もう思い出したくもない」


 
 宿に戻ったサイモフェンは、寝台に腰かけてその言葉を脳内で反芻する。
 冒険者の反応は無理もない、とサイモフェンは思う。

 きっと仲間を亡くしたのだろう。酸。
 ――確かに先日は酸に苦しめられたものだが、せいぜい防具をじわりと融かす程度のものだった。
 よっぽど多勢に囲まれたのか? いや、“あいつの酸には気をつけろ”と彼らは言った。
 つまり、何か要るのだ。とてつもなく恐ろしい個体が。

「――そういえば聞いてませんでしたよね。サイモフェンさんは、どうしてこの仕事に志願したんですか。弱いのに」
 不意に。ユピテルの問い掛けがあった。思考を中断させて、サイモフェンは我に返る。
「何で余計な一言が付くんだよ。……金が欲しかったんだ」
「遊ぶ金欲しさというやつですか」
「どこで覚えてくるんだそんなん。違ぇよ、俺はあんな、宿屋みたいな仮住まいじゃなくて……、家が欲しかったんだ。俺、故郷に妹がいるんだよ。そいつを引き取りてえの」
「妹さん、ですか」
「ああ。血は繋がってないけどな」
「それは実は本当の妹さんではないのでは?」
「何ちょっと怪談っぽい言い回ししてんだよ。……俺の故郷は、人数が少ないんだ。子供は、集落全体で育てる。だから、全員が家族みたいなモンさ。
 ……そんで、俺が一番年が近かったワケ。12歳下だけどさ」
「ずいぶん離れてますね」
「ああ、だからお前が目に留まったんだよ。同じくれーかなあと思って」
「なるほど。妹さんの代わりに僕の世話を焼きたいというわけですね」
「穿った見方ァ!」
 思わず声を荒らげた。近所迷惑ですよ、とユピテルが窘める。このやろう。
「だけど、妹さんには本当の親がいるわけですよね。いいんですか」
「……色々事情があんだよ。あのまま置いといたら、死んじまうらしいんだ」
「死んじまう、ですか。環境が悪いんですか」
「いや……、」話すべきか? 口籠る。「……生贄になるのさ。俺の故郷は限界集落だった。それでなくとも辺境の民だ、神に繁栄を約束してもらう為に取り縋って、100年に1度、生贄の娘を差し出すんだとよ」
「神ですか。差し出すとかわりに何がもらえるんですか」
「さあな。神サマは何も言わねえさ。存在するのかどうか、何かしてくれてるのかどうか、なーんにもな」
「そうですか。それでは、無意味なのでは?」
「だろうよ。俺もそう思う」サイモフェンは、伸びをする。「だから俺は、神は信じねえ。そんなモンに支配されてるのはごめんだ。運命は、自分で選ぶモンよ」
「……僕の主も、神のことは嫌いだったみたいですよ」
 懐かしげに目を細めて、ユピテルは言った。 
「僕を創ったのは、神々への反逆なのだと言っていました」
 くすりと笑うユピテル。サイモフェンも、笑う。
「――へぇ。そいつぁ、気が合いそうだ」
 


 
#13
 1月の迷宮は、怪粘体の蠢く薄暗い洞窟だった。
 先月もこの怪粘体には手古摺らせられた苦い記憶がある。対策方法を幾らか仕入れてきているとはいえ、生理的な嫌悪感は拭えない。
 歩きながらそうぼやくと、ユピテルは「どうしてですか」と首を傾げた。
「装備が溶かされるからとかならわかりますけど生理的というのはよくわかりません。魔物がみんな危険なことに変わりないですよね。負けたらどのみち死ぬだけですよ」
「死に方にも色々あるだろうよ」
「どう死んでも同じじゃないですか。死は死ですよね」
 不思議そうなユピテル。ははあ、とサイモフェンは顎をさする。
 一応周囲を警戒しているが、観察する限りは暫く会話に興じても良さそうだ。音を聞き洩らさないよう、声を落とす。
「例えばさあ、俺が、溶かされて身体全部なくなったとするだろ。俺が居た痕跡が、何もなくなる。俺が死んだ痕跡も」
 ユピテルも声を落として、はい、と頷く。
「この場合『俺は消化された』が事実だよな。……けど、目の前に全く痕跡がないってコトは、現実逃避できんだよ。あれは幻覚で、本当はどこからかひょいっと出てくるかもしれない。死を突き付ける証拠がないってのは、そういうコトだろ。信じられねえし、期待しちまうし。スッキリしねえ」
「なるほど。現場を見てなかったら、消えただけだと思うかもしれません」
「そういうコト。……それに。生きた痕跡も、残さないってコトなワケよ」
「生きた痕跡、ですか」
「ああ。俺はまだ、何もしてねえ。それなのに、何も残さないで、実在してたかも分かんなくなっちまうような、そういう最期を迎えるなんて、ヤだわ。俺はな」
「サイモフェンさんは、いろいろなことを考えますね」
「故郷は暇だったからなぁ。あれこれ考える癖はついたかもな」
 そうですか、とユピテルは頷いた。思考の論拠が分かったため、一応の納得を得たのだろう。それから、黙って歩き続けていた。洞窟は時折蝙蝠の羽音がする程度で、魔物の気配はない。
 警戒を続けるサイモフェンに、暫くしてユピテルが再び訊ねてきた。
「……サイモフェンさんは、僕が溶かされたらどうしますか」
「どーゆー質問だよ」何を言い出すやら。頭を掻く。「手遅れになりそーだったらとりあえず服引きちぎるか剣もぎ取るかな」
「どうしてですか」
「形見だよ。お前が生きてた証拠になるだろ」
「証拠はなくても僕が生きてる事に変わりないはずです」
「“俺が”、お前がいたコトと、いないコトを、納得するためだよ。多分」
 ――音がする。サイモフェンはそこで言葉を打ち切り、同行者を制止した。直後、一行の前に天井が崩れ砂が落ちてくる。砂をかぶった者はいない。うん、と口の端を上げると、サイモフェンはユピテルを見遣った。
「雑談はまた後でな。今は気を引き締めっぞ」
 

 
  この洞窟は本当に、怪粘体だらけだった。
 先月相対したウーズと呼ばれる怪粘体と違い、主に姿を見せるのは赤い身体をした怪粘体だった。ラーヴァと呼ばれるそれは、燃え滾る溶岩の名を関する魔物だ。その身に触れられればひとたまりもないだろう。
 その後も強力なラーヴァの群れに襲われ皆火傷を負った。傷は浅くない。皆、口数が少なかった。
「もう結構歩いたか? いつもの規模でいうと、ぼちぼち礎石があってもおかしくないよな」
 サイモフェンがぼやくと、同行者も「そう思うけど」と頷いた。

 ――そんな時だった、目の前に一体の怪粘体が姿を現したのは。

 苔色をした怪粘体。ウーズだ。
 よく似た姿を、先月目にした。
「あれは、先月戦いましたね。僕の防具を融かした」
 ユピテルは小声で呟く。魔物にはまだ気づかれていない。
「危険ですが、防具越しに致命傷を与える程ではないでしょう」
 サイモフェンの脳裏に残るあの冒険者の言葉が、警鐘を鳴らす。

 ――“あいつの酸には、気をつけろ”

「……俺は先月、ウーズと出会って仲間を死なせた冒険者の話を聞いたんだ」
 サイモフェンも声を潜めて、同行者に告げる。
「いつものウーズとは、比べ物にならないような厄介な個体がいる、らしい。
 あいつの酸、気をつけろ。絶対喰らうな。多少喰らったところで、って捨て身にならない方がいい。
 思い過ごしかもしれねーけど、……」
 自信なさげに告げる彼に、同行者は頷いた。皆、ウーズに視線を戻す。緊張。

 先陣を切ったのは同行者の女だった。続いて、ユピテルが斬りかかる。
 猛攻にも、ウーズは動じない。元より、皆傷も重い。攻撃が鈍いのだろう。
 ウーズの一撃で、サイモフェンも深手を負う。しかし、駄目だ。倒れている場合ではない。
 仲間の女が、何かに気づいたように息を呑む。サイモフェンはウーズに注意を払った。あれは、酸を吐く時の予備動作だ。
 サイモフェンはすんでの所で身をかわした。ウーズの放った強酸が、サイモフェンのいた場所を襲う。 
 代わりに犠牲になったのは、足元で右往左往していた鼠だった。
 酸をもろにかぶった鼠は、目の前で消えた。
「は?」
 うそだろ、おい。一瞬で消えやがった。
「サイモフェンさん、攻撃が来ます!」
 ユピテルの声で、我に返る。そうだ、まだ戦闘中だった。
 こんなやつに融かされてたまるか、それこそ跡形も残らねえ! 
 サイモフェンは得物を握った。
 

 
 街に戻って治療を受けたサイモフェンは、医者からこんな話を聞いた。

「あなたの出会った魔物は、ディープウーズですね。最近、仲間を融かされて亡くした人が多いと聞きます。
 結構、普通のウーズと勘違いしてかかって防具ごと融かされる人が多いんですよ。よく生きてましたね」
「……まったくだ」

 はは、と笑う。洒落にならねえ。
 予備知識が無ければ、自分も融け去っていたかと思うとぞっとしない。
 つくづく割に合わない仕事だ。
 さっさとお役御免して、今度は絶対魔物と戦わなくて済む仕事に就こう。
 殺風景な病室の天井を見上げて、サイモフェンはひとつ嘆息した。
 
  


 
#14
 ――ユピテルは夢を見た。

「ヒトは『感情』をもつものに愛情を覚えるらしい。
 だから私は、お前に感情を与えたんだ」

 いつもの場所だ。生まれ育った生家、聞き慣れた女性の声。
「……よくわかりません」
 言葉をかみ砕きかねて、ユピテルは首を傾げた。派手な服を着た目の前の女性は、構わずに続ける。
「お前が誰かに愛されるように」
「愛されるとどうなるんですか」
「嬉しいだろう」
「……あまり理解できません」
 急に何を言い出したのか、よく分からなかった。
「私は嬉しい」
「なぜですか」
「お前は私が作り上げたものだからさ」
 やはり分からない。要領を得ない顔をしているユピテルに、女性は1人満足げに頷く。
「これまでさんざん苦労したし、間違った。
 その上でようやく出来上がった私の誇りだ。
 ――そういうお前が人から愛されるのは、なかなか嬉しいものだぞ」
「そういうものですか」
「そういうものさ」
 

 
 ぱちり、と目が覚める。

 寝床の中にいた。仰ぐのはいつもの安宿の天井。顔を巡らせれば、隣の寝台では緑髪の男が寝入っている。そうだ。サイモフェンさん。
 カーテンの隙間から漏れる朝陽。鳥の声。現実だ、こちらが。
 懐かしい夢の残響は、取り縋ってもなお、徐々に遠くなる。あの人の顔が霞む。声も。
 嬉しいような、つらいような、説明し難い感情で胸がくしゃりとなる。
 ――僕はあの人を探しに来た。僕の創造主、家族、……母親。

 一からユピテルを育て、長年共に暮らした女性。ホムンクルスのユピテルを生み出したひと。
 それはもう、家族や母親も同然だなと、今隣の寝台で眠っている男が言っていた。
 分からなかった。血は繋がっていない。
 けれど、サイモフェンは血の繋がらない少女を、妹だと呼んだ。そしてその為にこうして命を張っているのだと。

 夢は更に、微かな記憶を呼び起こす。
「――いや、なんでかばうんですか。僕は主の護衛ですよ」
「いやあ、お前を護衛用にしたのは間違いだったな。もっと記録用とかそういうのにしとけばよかった」
「よくわかりません。僕では不足ですか」
「いいや。そういう事ではないんだがなあ」
 そう言って笑った主の言葉も、ユピテルにはよく分からなかった。
 

 
 目を覚ましたサイモフェンに、夢の話をした。

 あれは夢だった。けれど、昔確かに言われた言葉だった。
 言葉にしないと、誰かに話さないと、消えてしまう気がした。消えてしまうのが、――こわいと思った。

 寝ぼけ眼のサイモフェンは、目を擦りながらユピテルの耳に話を傾けた。
 それから、最後に笑んで、ユピテルの頭に手を伸ばす。

「――主サン、お前のコト、大事にしてたんだなぁ」
 くしゃくしゃと髪を乱されながら、ユピテルは目を瞬いた。
「お前が愛されると嬉しかった。お前が傷つくのが嫌だった。そういうコトだろ」
「だけど、僕は護衛用のホムンクルスですよ。それじゃ意味がありません」
「主サンにとっては、それだけじゃなかったんだろ」
「それだけじゃないと、何になるんですか」
「ばっかだな、お前は。……お前に幸せになってほしいってコトだよ」
「……よくわかりません」
「俺の妹は、お前に似てるよ。自分の役割をこなすことを、受け入れてる。そんで、それが自分の幸せだと思ってる」
「役割を全うするのは、幸せなことです。ちがいますか」
「さあな。違うかもしれねえし、違わないかもしれねえ。だけど、俺は」
 サイモフェンは手を下ろした。少年を見る目は優しい。
「……生まれたてのちいさなガキが、自分の手や足を動かして、歩けるようになって、モノ食うようになった。
 俺の名前を呼んで、あれがきれいだの、これが美味しいだの、俺に笑って話してた。
 だから俺はキレイなもんがあれば土産にしたし、うめーモンがあったら妹に食わせた。妹は、喜んで笑った」
 ユピテルは黙って彼の言葉を聴く。 
「それをもっと見てたいんだよ。ずっとそうして生きていって欲しかった。幸せそうに笑うのが、あの子には似合ってた。
 ……主サンも多分、そうだよ。だから、お前を置いてったんだ」
「……。どうして置いていくんでしょうか」
「置いてかれたくなかったか?」
「……。はい。置いていかれたくなかったです。主が危ないところへいくなら、僕は、守りたかったです」
「それも分かるよ」
「……主に会いたいです」
 サイモフェンはもう一度、ユピテルの頭をくしゃりと撫でた。
「そう。だな。
 ……
お前も、主サンのコトが大事だったんだな」

 僕も、主を大事に思っていた。主も、僕を。
 そう思った時、ほんの少しだけ心の中が、くしゃ、となった。
  
 


 
#15
「ここにもいない……」
 毎月、ユピテルは迷宮でそう呟く。
 彼の創造主はまだ、見つからなかった。
 迷宮の外にいる時も、いつも行方を捜して街を彷徨っている。サイモフェンが情報収集を始めてからは、ついでに彼の主の事を訊き込んだりもした。
 だが、消息は掴めない。似たような女を何か月も前に見た事があるだとか、その程度だ。最近は、情報すらなかった。

 今月で、任期満了の1年になる。長かった。短くもあった。
 日に日に過酷さを増す迷宮攻略で、何度も死にそうな目に遭った。無事に切り抜けられたのは、運が良かったとしか言いようがない。 毎月、傷は増える一方だった。

 サイモフェンは嘆息する。
「どうしましたか、サイモフェンさん」
「いんや。……運が良かったなと思って。よく生きてたよ、ここまで」
 4月。今月の迷宮は、樹海だった。気配は蠢いているが、この野営地に辿り着くまでに一度しか魔物と出会わなかった。
 ぱちり、露営のともしびがはぜる。
 警戒を怠る事は出来なかったが、こうやって焚火を囲んで食事をとる時間はやはり多少落ち着くものだ。先程まで会話に興じていた同行者たちも、休息の準備を始めた。今夜の不寝番はサイモフェンとユピテルである。
 
「……主はもう、生きていないかもしれません」
 二人だけになった時、ユピテルが突然ぽつりと呟いたのは、これまでサイモフェンが思えど言えなかった言葉だった。
「な、」不意をつかれて、たじろぐサイモフェン。「……まだ、分かんねーじゃん」
「いえ。……薄々、気づいてたんです。僕は、主の制約に縛られた身です。だから、今、僕がここにいるということの、それ自体が」
 ――ホムンクルスについて、サイモフェンは分からない。それでも。
 彼は創造主が命じたからこそ彼女を守れず、追えず、留まっていたのだ。今、彼は「ついてくるな」「ここにいろ」と言われた制約を破っている。それこそが、もはや制約を与えた主の存在そのものが失われた証。十分すぎるほどの論拠だと、思った。
 言葉を失ったままのサイモフェンに、ユピテルはふるりと頭を振った。
「でも、制約の事も、勘違いかもしれません。主は僕に助けて欲しいと思うから、制約が解けたのかもしれません。僕には、わかりません。だから、探します。僕は――それしか、目的がないんです」
 露営の火がぱちり、とはぜる。ユピテルの横顔を、炎が照らし染める。表情は、窺えなかった。かけるべき言葉も、見つからない。
 それきり、魔物に出会うまで二人は口を開かなかった。
 

 
 最後の一撃を与えたのは、ユピテルだった。
 大輪の人食い花が崩れ落ち、漸く動かなくなったのを見届けると、一行は嘆息した。
「ひい、食われずに済んだな……。ぼちぼち礎石があるかね」
 獣はまだしも、植物が這いずり回って肉を狙って来るのはぞっとしない。この人食い花は向日葵によく似ている。向日葵は好きだが、当分見たくなかった。
 しかし、先程の人食い花はこの迷宮の親玉だったのだろうか、周囲の魔物の気配は退いていた。あとは礎石を探して破壊すればいい。
 それで、終わりだ。この迷宮攻略も。 一行は疲労から重くなった足取りで、迷宮の奥を目指す。
「1年なんだなあ。これで」
 呟いたサイモフェンに、ユピテルは、ぱ、と顔を上げた。
「……サイモフェンさんはこれが終わったら、どうするんですか」
「俺か? 迷宮攻略は今月でやめにすっかな、ってトコ。やっぱ俺は命張るのには向いてねーよ、イイ経験にはなったけど」
 サイモフェンは肩を竦める。偽らざる本音だ、他の冒険者にくっついていけば楽して儲けられるなんて安易に考えたのが間違いだったのだ。我ながら、浅はかだとしか言いようもない。
「そうですか。……それじゃあ、お別れですね」
 少年の返答に陰りを感じたような気がして、サイモフェンは顔を巡らせる。
 表情は読めなかった。見えるのは大きな瞳と、閉じられた口元だけ。いつもの表情といえば、そうだ。
 サイモフェンは頬を掻く。――たまらなく、寂しそうに見えた。

「……なあ、ユピ。お前、目的ないなら――」
 サイモフェンが言いかけたその時、少年がはたりと足を止めた。
「おい、どうした?」

 問いかけには、応えない。彼の瞳は、一点を注視して止まっていた。
 しばらく、そうしていた。そして、躊躇いがちに視線の先へと歩みを進める。
 立ち止まった少年の足元に、布や装身具らしきものが落ちているのが見えた。屈む。検分して、ゆっくりと拾い上げて、そのちいさな身体でぎゅっと抱きしめた。
 ユピテルは、何も言わなかった。
 仲間の手で礎石が破壊され、迷宮が揺らいで消えても。
 ただそうして、ずっとそうしていた。
 

 
 ――1年間の迷宮攻略が終わった。
 最後の報酬を受け取って、帰路につく。
 いつも真顔でお喋りなユピテルは、一言も喋らなかった。胸に後生大事に何かを抱いたまま、黙ってサイモフェンの後をついてくる。
「……ユピ。大丈夫か」
 街角で振り向いて立ち止まる。ユピテルは顔を上げない。応えもない。
 サイモフェンは頭を掻いた。そっと身を屈めて、ユピテルの顔を覗き込む。

 赤い鼻。噛んで震える唇。顔じゅうを濡らして、ぽろぽろと頬を伝う涙。
 ――ユピテルは泣いていた。
 たったひとり、物言わず静かに、頬を濡らして。
  


 

#16 相棒
 いつだってほとんど表情を変えなかった、ユピテル。
 今でも表情は変わらない。ただただ、涙が頬を伝う。

 サイモフェンはぎょっとして目を瞬かせる。慌てて、しゃがんだ。ユピテルの顔を見上げて、おろおろと声を掛ける。

「ど、どうした、おい。いきなりよお……ず、ずっと泣いてたのかよ!?」
「へんなんです」
 ぽつり、とユピテルは言う。
「なんだか鼻がつーんとするし、喉がヒリヒリして涙がとまらなくて、つらいです」
 少年は、ぐす、と鼻をすする。

 最後の月。迷宮の最奥で彼が拾い集めていたものは何だったのか。
 装身具、に見えた。もはや持ち主を失ったそれ。
 ユピテルが大事に抱きしめている事から、いくらでも推察できた。

「……。そっか。主サンのだったんだろ、それ。
 見つけちまったってコトは、そーゆーコト、なんだもんな」

 少年はただ、ぽろぽろと涙をこぼしている。ぐす、鼻をすする。
 このバカは、自分が泣いてる意味さえ分かっていないのかもしれない。
 最初こそ、彼は感情らしきものを持ち合わせていないのかもしれないと思った。喜びも、悲しみもなく、ただ任務を遂行するだけの人形なのではと。
 何が、なんだか鼻がつーんとしてつらいです、だ。わからないにも、程がある。ちゃんと、泣けるんじゃねえか。ちゃんと、大事だったんじゃねえか。
 少し考えて、目を眇めた。立ち上がって、少年の頭を、ぐりぐりと撫でやる。

「泣けばいいさ。自然なコトじゃねえの。……家族だったんだもんな」
 ユピテルはしゃくりあげる。

 ――気が付けば、彼は幼児がそうするようにわんわんと泣いていた。
 道行く者たちが不思議そうにちらり覗き見る。
 しゃあねえよなあ、と胸中で独り言ちる。
 たった1人の家族を、失ったのだ。こいつは。それも、言う事も聞かずに1人で飛び出して、探しにきたくらいの。大事な、家族。
 サイモフェンは少年の頭を引き寄せた。くしゃり、撫でる。

 泣いちまえばいい、いくらでも。
 ――お前はまだまだ、ガキなんだから。
 
 
 
「……落ち着いたか?」
 ようやく少年が泣き止んだ頃には、もう人通りもまばらだった。
 夕飯代わりに露店で買ったサンドイッチを手で半分に割ると、ユピテルに差し出した。彼は素直に受け取る。

「ありがとうございます」
 すん、と洟をすすった。目元をぐしぐしと乱暴に拭って、もぐ、とパンを食む。
 サイモフェンも隣でもぐつきながら、二人は道を歩き始める。
 暫くそのまま、黙って歩いていた。ややあって。
「……形見の話、少しだけわかりました」
 ユピテルがぽつりと言う。怪粘体の洞窟で話をした事だろう。
「形見が、残っていてくれて、よかったです。
 主が持ち物まで全部溶かされてしまったのではなくて、よかったです」

 そうだな、とサイモフェン。
「主はちゃんと……、いたんですよね。主がいなかったら僕はいないのに、どこにもいないから、はじめからいなかったみたいな気がして、へんな気持ちでした。家に帰ったらいるんじゃないかと思って、帰ったこともあったけど、いなくて、胸がつらかったです」
 ああ、と相槌。
「でも、全然なにも残ってなかったらきっと、もっとつらかったです。いるかもしれないって、ずっとずっと探し続けるのは、多分、すごくつらいです。
 ……だから、残っていてくれて、よかったです。もういないことも、ちゃんといたことも、わかります。だから、よかったです」
 また少年の目に涙が滲んだ。ぐし、とまた拭う。

 彼の創造主は、憲兵に捕えられて迷宮に送り込まれたのだと聞く。
 志願した冒険者とは違う、強制的な出向だ。それはほぼ死刑のようなものだったろう。大言壮語をうたう魔術師の、神をも恐れぬ研究の数々。聞く限りでは、決して人道的とは言えなかった。
 それでも彼女は、おそらくユピテルを愛していた。
 自分はもう戻れないだろう、死ぬまで迷宮に挑まされ続けるだろう。そう、分かっていたのではないかと何となく思う。
 ユピテルを手放したのは何も、要らなくなったからでも何でもない。勝ち目のない戦いの中にユピテルの命をさらすことを、彼女は拒んだ。
 ――それはきっと、親心だったろう。

「…なあ、ユピ。お前さあ。また次も迷宮、行くのか?」
「いえ。……僕の目的は主を探すことだったので」
 創造主を失ったユピテルはもう、独りだ。
 目的もない。どうする気なのだろう。この危なっかしいガキひとりで。
 けれど、言う事は決まっていた。サイモフェンは口を開く。
 迷宮で言いかけた、その言葉。
 
「ならさあ。お前、俺と一緒に行かねえ?」
 予想もしてなかったのだろうか。ユピテルは立ち止まって、きょとんとサイモフェンを見上げる。
「だってよお、お前、護衛用なんだろ。張り合いがあるだろ、連れがいた方が。――そうそう、お前一人でいるより絶対、大人がついてた方がいいと思うし。大体お前、危なっかしいんだよ。何がもうお別れですねだよ。どーすんだよこれから。ガキんちょのくせに、いっちょまえの大人のつもりで――」
 言い訳のように並べ立てるサイモフェンに、ユピテルはただ目を瞬かせる。

 彼にしてみれば、理解出来ないだろう。主でもない。旧知の仲でもない。少しばかり長く一緒には居たが、結局は行きずりの人間だ。
 非合理的だとか、サイモフェンさんの言ってる事はわかりませんとか、言ってくる可能性は十分にあった。
 それでも。

 ――1年も一緒にいたのだ。この、ちいさな弟分と。
 情がわかない、わけがなかった。
 
 ユピテルは黙っている。サイモフェンが手持ち無沙汰に手を握ったり開いたり、小さく呻いて少年の顔を盗み見たりしはじめたころ、ようやくユピテルは顔を上げた。

「…はい。それでは、僕が一緒に行ってあげます」
 真っ赤な目のまま、少年は目を細めて笑んだ。
「……サイモフェンさんは、ちょっと弱そうなので」

「ッてめ――」
 拳を握りかけて――すぐにその手をゆるめる。
 聞き覚えのある言葉だった。
 どうしようもなく慇懃無礼で、小生意気な、出会いの台詞。
 サイモフェンも、気が抜けたようにふっと笑った。
 最初は、人形みてえだと思ってたのに。
 ったく、洒落たコト言うようになりやがって。この、クソガキが。
 

 
「望むように生きろと主は言った。……僕にはその意味が、まだわかりません」 
 石畳にふたつぶんの影がのびる。
 街を往きながら、ユピテルは、小さくそう言った。
 サイモフェンは笑って、頭をぐりぐりしてやる。
「そんなモン、これから幾らでも探せるさ。
 お前が、その意味を本当に分かる日もきっと来る」
「サイモフェンさんには、わかりますか」
「さあな」
 サイモフェンには、主の意図が理解できる気がした。けれど、それはユピテル自身が見出さなければ意味のないものだ。
「……さあて、これから何するかな」

 ユピテルの頭から手を離す。これから幾らでも、やる事はあるだろう。
 彼には金が必要だった。
 しかしながら、迷宮攻略は少しばかり割に合わない。
 もう少しやりようがあるはずだった。それこそ、いくらでも。
 1人ならば出来なかった事も、ユピテルがいるならば。そして、俺がこのガキの面倒を見ているならば。
 傍らの小さな弟分を、見下ろして笑う。
「……ま。これからも、よろしくな。相棒」
「……はい」
 ユピテルも、見上げて笑った。



ドブネズミ達のハローワールド編 了






 
# After story
 かくして1年の迷宮攻略を終えたのち、
 サイモフェンとユピテルは共に連れ立って旅立つ。

 サイモフェンは“頭脳”であり“視る者”として、
 ユピテルはサイモフェンに付き従い剣を振るう、力の代行者として。

 まず第一に、サイモフェンの目的は妹を救い出すこと。
 彼女の暮らす場所を作るための立ち回り、金策、そして救い出す段取り。 
 彼らの仕事は多岐に渡る。
 冒険者としては、雑用から調査、リスクブレイカーとしての仕事まで。
 サイモフェンは能力を駆使して情報を握り、裏稼業でも立ち回っていく事になる。美しい少年従者を傍らに。
 夜ごと、彼の敵は増えるだろう。それと同じだけ、彼には仲間も多い。
 
 いつしか時が過ぎ、妹が女神に捧げられる日が来るだろう。
 しかしサイモフェンは、ユピテルの手を借りてその妹を奪い返す。
 故郷の妄信に唾を吐き、1人の少女の人生を掴み取るために。

 彼女の為に手に入れた、サイモフェン達の居城。
 それは路地裏にひそりと佇む、小さな鉱石屋だった。

 サイモフェンは手先が器用だった。
 彼の父親は元々細工師で、サイモフェンもその道を志していた。
 若い時分は露店を開いても売れはしなかったが、店でもあれば箔も付く。
 
 27歳になったサイモフェンは、ユピテルや妹と共に暮らしていた。
 鉱石屋――《月灯の羅針盤》の店主として。
 

 
「こんな所まで来るとは、道にでも迷ったか。
 それとも、路地裏の男前の噂でも聞きつけたか?」

 サイモフェンはからかうような言葉を掛けて、不敵に笑む。
 豪奢な椅子に背を沈めた痩躯の男。
 天幕の向こう、薄暗がりに色めくとりどりのランプに照らされた男の目は、どこか猫を思わせる。品定めするように来訪者を見据えるその金緑の瞳。

 あなたは、居心地悪い思いで目を逸らすかもしれない。
 男の傍らに佇む、美しい少年。視線に気づけば彼は微笑みを返し、しかしついと来訪者に背を向けて、棚の上に丁寧に並べられた鉱石の手入れに戻ってしまうだろう。困ったように、あなたは店主に目線を戻すだろうか。店主はくつりと笑う。
「ま、大概あいつに連れて来られたんだろうけどな。
 ――しかしまあ、それで此処に引き寄せられたっつうことは、呼び寄せられたっつう事かもしれねえな。あんたは石を求めたのかもしれねえ。だが、逆も然りだ」
 男は深い森のような色をした髪をかき上げ、その猫目を細める。
「石は所有者を選ぶ」
 この胡散臭い男に背を向けて、早く此処から逃げ出したい。
 少年の客引きに捕まったあなたは、そのように思うかもしれない。
「あんたが何も言わずとも、石は決まって告げてくる。此処を訪れる者が何を求め、どいつの助けを必要としているのか」
 
サイモフェンはあなたの瞳を見据える。
「――歓迎するよ、客人。俺があんたに巡り合わせてやる。あんたの行く末を守る、守り石を」
 それに呼応するように、決して広くはない店内の鉱石が僅かに煌めいたような気がした。
 

 
「――何も買わずに帰ってしまいましたね、サイモフェンさん」
「……んだよ。何が悪かったんだ? ユピ」
 がりがりと頭を掻き、どっかと背もたれに沈むサイモフェン。ユピテルは頷いた。
「店主が胡散臭いからだと思います」
「てめえユピ」
「大体、このお店の場所もよくないと思います。こんな所に呼び込まれたら、僕だったら剣を抜きます」
「こら従業員てめえ」
「立地と店主には百歩譲って目を瞑っても、内装はもう少し何とか出来ると思います。まず天幕が怪しいです。ランプや石は綺麗だと思いますけどサイモフェンさんが座ってる椅子の豪華さの意味が分かりませんしそこに座ってるサイモフェンさんが怪しいので余計胡散臭い店になっ」
 ごいん、と殴る音が響いた。
「痛いです」
「真顔でまくし立ててんじゃねえ!」
「暴力反対です」
「言葉のナイフ振り翳してる奴が言う言葉かよ!」
 サイモフェンは嘆息する。
「あーあ、結局冒険者稼業かねぇ。店の売り上げだけで何とかしてーなぁ」
「もう無理じゃないですか。敵も多いし立地が悪」
「だからうるせえ!!!!!!」

 ――路地裏の小さな店。鉱石屋《月灯の羅針盤》。
 店主サイモフェンと、付き従う少年ユピテルのいつもの光景であった。
 

 to be continued...